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ジュリーニのモーツァルト

 これほど静かな歌に満ちたト短調交響曲の演奏があっただろうか。そう思ったのは、今年の6月15日に92歳で亡くなった指揮者カルロ・マリア・ジュリーニの追悼盤としてオルフェオから発売された、モーツァルトのト短調の交響曲(K. 550)のヴィーン・フィルとのザルツブルク音楽祭のライヴ録音(1987年:Orfeo C 654 052 B)を聴いてのことである。
 第一楽章の最初の主題からしてジュリーニらしくよく歌っているのだが、けっしてメロディが強く自己を主張することはない。古典的な様式感をもったフレージングを保ちながら、他の声部との対位法的な関係のなかで静かに流れてゆくのだ。ジュリーニがヴィーン・フィルの自主性を尊重したことと、ザルツブルクの祝祭大劇場のややデッドな音響が相まってのことなのかもしれないが、そこには深沈とした味わいさえある。この点、いくらか重すぎなくもないレガートが際立つ後年のベルリン・フィルとの録音(1991年:Sony Classical)とはいくぶん対照的に聴こえる。第二主題は典雅の極み。展開部は、劇的な転調を強調するのではなく、音楽に語らせるような感じで進行する。
 さて、この演奏において最も印象的だったのは、フィナーレである。ひとつひとつの音符を慈しむように、それでいて音楽を停滞させることなく提示された第一主題もさることながら、やはり耳を惹きつけたのは、第二主題の歌であった。いくぶん間を置いて、少しテンポを落として奏き始められたそのメロディを聴いたとき、ああジュリーニはここを聴かせたかったのだ、と思わずにはいられなかったのである。提示部のそれは静かな微笑をもって悲しみを語りかける歌であったが、再現部でこの主題が回帰してきたとき、そこにある悲しみはぐっと深まり、歌もより静けさに支配されたものに変わっていた。このひそやかな歌に結晶するジュリーニの表現は、実に厳しいものなのだけれども、その厳しさは、彼自身が「愛」と呼ぶ人間的な温かさに貫かれたものなのだろう。そのことは、音楽が静かに流れるなかに聴かれる歌のしなやかさとなって現われているようにも思われる。
 第二楽章で、八分音符の主題を柔らかに奏でる声部が静かに折り重なってゆくのを聴きながら、1996年の1月にザルツブルクで聴いたモーツァルトのレクイエム(この演奏については:http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Mozartwoche_1996.htm)を思い起こさずにはいられなかった。そこでも、あたかも闇のなかに蝋燭の灯がひとつ、またひとつと灯るかのように静かに声部が折り重なってゆくポリフォニックな進行が印象的だったのである。思えば、この歌への愛を生きた巨匠ジュリーニの演奏にじかに接することができたのは、このレクイエムが最初で最後になってしまった。

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