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管啓次郎と翻訳

 最近読んで面白かった本のなかに、管啓次郎の『コヨーテ読書──翻訳・放浪・批評』がある。最近では移民や亡命者たちの作品を中心に、アメリカのマイノリティの文学の翻訳を手がけている彼の、言語への深い洞察にもとづいて翻訳すること自体を論じたエッセイとともに、生活に根ざしたマイノリティたちの文学の世界への想像力をかき立てるエッセイの数々も収められていて、久しぶりに読書の楽しみを味わうことができたし、また言語について考える刺激も得られた。何よりも、言語の、というよりも言葉を語ることの深層に翻訳を見届け、また翻訳を通過すること、さらに言えば翻訳を経験することを、文学にとって根源的な経験として語っている点に共感する。
 「翻訳人、新しいヨナたち」と題されたエッセイで、彼は白鳥正宗と小林秀雄に触れながらこう述べている。「ここで「翻訳」という言葉に、少なくともふたつの層を区別したほうがいいかもしれない。積極的に翻訳をおこなうことを活動の中心にすえる決意をする批評家がここで念頭に置く翻訳が、そのもっとも根源的な層においては、単に外国語で語られた思弁の反復や理論の適用などではないことは、明らかだろう。あらゆる思考の発生の瞬間にある翻訳──見慣れないもの、徹底して異質なものを稲妻の閃光のうちに見とり、本当には語りえないその残像を言葉で包囲しながら、暴力的に切りつめ、精密さを断念しつつ文の網にすくいとってゆく行為──に、彼はここでふれている。/そうした翻訳にとっては、じつはオリジナルが外国語か自国語かというちがいは、結局どちらでもいい。けれども同時に、通常の意味での「翻訳」という行為がもつ圧倒的な厚みと力を無視することはできない。外国語と格闘し、あるいはその翻訳文(それはすでに一種の外国語だ)を苦労しつつ読むという抵抗に満ちた迂回を経てはじめて、人は自国語内の翻訳というぎこちなく苛立たしい経験さえも発見できるのだ、いかに多くの言葉が、われわれにとっては見慣れないものであることか。あるいは、その見慣れなさが突如として流れる水晶の輝きをおび、われわれの生に(たとえそれ自体は無意味であっても)輝かしい読点を打つことか。そうした経験がたしかにあると信じられるからには、小林のいう「翻訳文学者」を単に「文学者」と呼んでもさしつかえないだろう。それは異質な思考、異質な言葉のアレンジメントを、ある言語に注入しようと試みる者のことだ。「国語」の安定に奉仕し、飼い馴らされた文章の整然としたふるまいのみを期待する者は、「文学」という経験の動揺にはそもそも何の関係もない。あるいは「翻訳」という迂回がないところに、「文学」はない」。とても長い引用になってしまったが、翻訳についてのまれに見る深い洞察を示す言葉として、引いておきたかった次第である。
 このような言語の生成の根源に翻訳を見届け、その視点からいわゆる翻訳を見つめなおす洞察を、管は自身の実践に活かしている。彼は、マイノリティの文学者が英語、スペイン語、ポルトガル語といった複数の言語を行き来しながら自分の世界を織りなす言語を生成させているさまを、みずからが行なう翻訳のうちにすくい取ろうと試みているのだ。その作業日誌とも呼ぶべきエッセイも、じつに興味深い。
 「一つの言語(たとえば英語)で書いていようとも、その英語使用の影で表面化せずにとどまっている時間的・空間的コンテクストと、そこに響きわたる他のさまざまな言葉を、救出しようとする態度」としての「オムニフォン」を論じた管の近著も読んでみたいと思っている。

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