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細川俊夫の言葉づかい

 最近広島で作曲家の細川俊夫の謦咳に接することができた。そのことを記しておきたい。
 もう一か月前のことになるが、「ヒロシマ、声なき声」の日本初演のために広島を訪れていた彼は、その三日前にプレ・トークを行なった。そこで細川はまず、前世紀における無調の新しい音楽の文法の模索に触れながら、自分が今、日本に、それも広島に生まれた者としてこの時代の新しい響きを響かせるような、新しい音楽の文法を模索する必然性を語っていた。その際、五音音階のうちに「日本的」なものを見るようなオリエンタリズムを排して、日本のうちにある深い音の文化ないし伝統の水脈を、自分がこれまで学んできた、基本的には西洋現代の音楽の語法で探り当てようとするのだという。そのような音楽の言葉づかいを、彼は探求しているのだ。
 細川の音楽の語法は、彼自身が表明しているように、書のそれと強い親近性をもっている。彼の音楽は余白のなかに垂直に打ち込まれるところから、滲みやかすれをともなって展開してゆくのだ。かすれということで思い起こされるのは、彼が尺八特有の、呼気音の、西洋音楽の視点から見ればノイズを含んだ音のうちに、自然の生命との近さを見て取っていたことである。細川の音楽の時間は、西洋の音楽のように水平的かつ直線的に流れることはない。むしろ書を書くような呼吸と深く結びつきながら、垂直的な深みをもった螺旋を描いてゆく。彼は、打ち込みとしてのとどまる今の停滞から波打つように螺旋を描く時間の展開を、音楽で表現したいのかもしれない。その運動は、「循環する海」のような作品では、寄せてはかえす波の動きとも重なることだろう。
 このような、自分自身の根源であるような自然の深みへ立ちかえり、そこから新たな音楽を聴き出そうとする、細川のある意味で特殊で個人的な身ぶりが、彼の音楽の現在の普遍性に結びついているのだろう。そして、7月6日に聴いた「ヒロシマ、声なき声」では、彼のそうした態度が、ヒロシマのグラウンド・ゼロの沈黙から何かを聴き出すものでもあることも示されていたと言えよう。歌の途絶を表現することで、「21世紀にオラトリオという形式でどのような音楽が可能か」という問いに答えようとする「ヒロシマ、声なき声」、それはまたヒロシマから今発信されるべき新しい音楽の可能性を開く作品にほかならない。

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