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2005年8月

ジョルジョ・アガンベンの『開かれ』

 ジョルジョ・アガンベンの『開かれ──人間と動物』(岡田温司+多賀健太郎訳、平凡社)を、遅ればせながら読み終えた。ベンヤミンの思想に関心をもつわたしにとってはとりわけ刺激に富んだ著作であった。
 この『開かれ』においてアガンベンは、あらゆる政治体制のうちに内在化されるかたちで晩年のフーコーが言う「生政治」が全世界を覆いつつある状況の内部に、その「生政治」が機能不全に陥る可能性を探っていると考えられる。つまり、絶えず「人間」と「非人間」を分割し、「人間」であるか、それともたんなる「動物」であるかを決定し、そうして──アガンベンに言わせれば「開かれざるもの」を「開く」ことによって──暴露された「剥き出しの生」を管理し、一定のかたちで生き残らせる、言わば「収容所」を含み込んだ「生権力」の支配が常態化している状況のただなかに、「例外状態」が、その力がおよびえない場所が、ひとつひとつの生そのもののうちに開かれる可能性を探ろうとしているのではないか。そしてその場所の名こそ、「開かれ」にほかならないだろう。
 この「開かれ」についての考察が、ここでのアガンベンの中心的な課題であることは言うまでもないが、このハイデガーが「人間」のうちに見て取り、「動物」に認めなかった世界への「開かれ」の真相が示されるのは、アガンベンによれば、ハイデガーが「形而上学の根本諸概念」についての講義において長大な考察を充てている「倦怠」、それも「深き倦怠」においてである。なすべきことをもたず、気晴らしだけを求める「倦怠」のなかで、人間は存在者の「閉ざされに開かれている」。そのことを指摘するハイデガーは図らずも、彼にしてみれば人間に固有の「開かれ」が、「開かれても閉じられてもいない動物の環境と根源的に異なるようなものを名指すことはない」のに触れているのである。「開かれや存在の自由は、暴露されざるものそのものの顕現であり、開かれを見ないヒバリの宙づりにして生け捕りなのである。動物の放心とは、人間界とその開かれの中心に象嵌された宝石にほかならない。「存在者が存在する」という驚異とは、露顕せざるもののうちに曝されることによって生物のうちに生起する「本質的な震撼」をつかまえることにほかならないのだ。実際、開かれは、この意味で、不合理な説明なのである。つまり、開かれにおいて賭けられている開示は、本質的に閉ざされへの開示であり、開かれをじっと見据える者は、閉ざされていること、見ないことしか見ていないのである」。
 そのように、世界への「開かれ」が実は、存在者の「閉ざされ」に曝されることであり、「人間」と「非人間」の区別が宙づりにされる場面を指し示していることに触れながらも、アガンベンによれば、ハイデガーは「人間」と「動物」の関係の不可能な決定のうちに「民族」の歴史的命運を見るとともに、その命運が芸術作品のうちに示されると語っている。これに対してベンヤミンは、芸術作品のうちに、「おのれ自身へと送り返された」、「いかなる昼も待望することのない」自然の「救出された夜」の表現を見ている。それはハイデガーの言う「露顕せざるもの」を、そのようなものとして救い出す可能性を示しているのだ。さらに、ハイデガーが指摘するように「芸術」と同じ起源をもつ「技術」は、ベンヤミンによると、「人間」が「自然を支配する」ためのものではなく、「自然と人類のあいだの関係を支配する」ものでありうるのだ。アガンベンは、その「関係」のうちに、「人間」と「非人間」を区別する決定を「静止状態」において宙吊りにする「星座」を見て取っている。そして、その「星座」をなす「隙間=戯れ」を、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」において語っている「自然と人間の協働=共同遊戯」と重ねあわせたい、という誘惑に駆られるのは、わたしだけだろうか。
 アガンベンが『開かれ』の冒頭で取り上げる、13世紀のヘブライ語聖書の写本に描かれる動物の頭部をもつ義人たちの形象、それは「人間と動物のいずれをも存在外へと存在せしめ、本来的に救うことのできない存在のうちで救済を果たす「大いなる無知」の形象」であるという。その「大いなる無知」が、「生政治」に覆われたこの世界のなかで、具体的にどのようなかたちで実現されうるのか、あるいはそれによってどのような「星座」が形成されうるのか、さらにはそれによって、どのように「生権力」が停止され、「救われざる残余」が救済されうるのか。この点は、アガンベンは明らかにしていない。これを衝いて彼を「修辞的」と批判することもできようが、「大いなる無知」の可能性を考えることに読み手をいざなうだけでも、彼の『開かれ』には大きなインパクトがあると言うべきであろう。

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ジュリーニのモーツァルト

 これほど静かな歌に満ちたト短調交響曲の演奏があっただろうか。そう思ったのは、今年の6月15日に92歳で亡くなった指揮者カルロ・マリア・ジュリーニの追悼盤としてオルフェオから発売された、モーツァルトのト短調の交響曲(K. 550)のヴィーン・フィルとのザルツブルク音楽祭のライヴ録音(1987年:Orfeo C 654 052 B)を聴いてのことである。
 第一楽章の最初の主題からしてジュリーニらしくよく歌っているのだが、けっしてメロディが強く自己を主張することはない。古典的な様式感をもったフレージングを保ちながら、他の声部との対位法的な関係のなかで静かに流れてゆくのだ。ジュリーニがヴィーン・フィルの自主性を尊重したことと、ザルツブルクの祝祭大劇場のややデッドな音響が相まってのことなのかもしれないが、そこには深沈とした味わいさえある。この点、いくらか重すぎなくもないレガートが際立つ後年のベルリン・フィルとの録音(1991年:Sony Classical)とはいくぶん対照的に聴こえる。第二主題は典雅の極み。展開部は、劇的な転調を強調するのではなく、音楽に語らせるような感じで進行する。
 さて、この演奏において最も印象的だったのは、フィナーレである。ひとつひとつの音符を慈しむように、それでいて音楽を停滞させることなく提示された第一主題もさることながら、やはり耳を惹きつけたのは、第二主題の歌であった。いくぶん間を置いて、少しテンポを落として奏き始められたそのメロディを聴いたとき、ああジュリーニはここを聴かせたかったのだ、と思わずにはいられなかったのである。提示部のそれは静かな微笑をもって悲しみを語りかける歌であったが、再現部でこの主題が回帰してきたとき、そこにある悲しみはぐっと深まり、歌もより静けさに支配されたものに変わっていた。このひそやかな歌に結晶するジュリーニの表現は、実に厳しいものなのだけれども、その厳しさは、彼自身が「愛」と呼ぶ人間的な温かさに貫かれたものなのだろう。そのことは、音楽が静かに流れるなかに聴かれる歌のしなやかさとなって現われているようにも思われる。
 第二楽章で、八分音符の主題を柔らかに奏でる声部が静かに折り重なってゆくのを聴きながら、1996年の1月にザルツブルクで聴いたモーツァルトのレクイエム(この演奏については:http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Mozartwoche_1996.htm)を思い起こさずにはいられなかった。そこでも、あたかも闇のなかに蝋燭の灯がひとつ、またひとつと灯るかのように静かに声部が折り重なってゆくポリフォニックな進行が印象的だったのである。思えば、この歌への愛を生きた巨匠ジュリーニの演奏にじかに接することができたのは、このレクイエムが最初で最後になってしまった。

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夏休みはおしまい

 8月19日の夜遅くに広島の自宅に帰った。鹿児島から広島まで、高速道路を走ったのは正味6時間半から7時間といったところだろうか。お盆が明けて間もないこの時期にしては速いほうだろう。
 帰省しているあいだ十分に骨休めできたのかよくわからないけれども、ともかく夏休みはこれでおしまい。昨日から仕事に戻っている。今はベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』の「アレゴリーとバロック悲劇」の章を読みなおしているところ。そのアレゴリー論の言語哲学的な射程を測ってみたいと思っているのである。つまり、バロック悲劇におけるアレゴリーという表現形式についてベンヤミンが述べていることが、バベル以後のこの世界で、言葉を語ること自体をどのように照らし出すものなのか、さらには言語活動のどのような可能性を切り開くものなのか、考えてみたいのだ。その可能性とはおそらく、他者との埋めることのできない隔たりを前にしながら語る可能性であろうし、また言葉に付きまとう不透明な厚みないし物質性を引き受けてゆく可能性でもあろう。彼自身の以前の言語論「言語一般および人間の言語について」の一節をそこに引いていることからもうかがえるように、ベンヤミンも、言語哲学的な問題意識をもって「アレゴリーとバロック悲劇」を書いていたはずである。
 そう言えば、ベンヤミンは同じ『ドイツ悲劇の根源』の「認識批判的序説」の冒頭近くで、「方法とは迂路である」と述べていた。彼が論ずるアレゴリーもまた一つの「迂路」、すなわち言語がその根源へと立ちかえり、それが人間の道具としての記号となる以前に発揮していた言語の原初的な表現力を取り戻すため、この世界でどうしても通過しなければならない「迂路」なのかもしれない。
 また、アレゴリーに内在する「形象的存在と意味作用のあいだの深淵」、そこにある時間的な隔たりのうちにベンヤミンは、「意味作用ないし志向の根源史」を見て取っているのだが、そのことは、熊野純彦がその『差異と隔たり』のなかでレヴィナスに触れながら、他者との隔たりないし断絶こそが、言語的コミュニケーションを始動させると述べていたのを思い起こさせる。そして、ある意味でデリダがパロールとエクリチュールの二項対立を脱構築したように、ベンヤミンも「アレゴリーとバロック悲劇」において、象徴をアレゴリーよりも優位に置く位階秩序を脱構築するとともに、アレゴリーを構成している隔たり、他者との時間的な疎隔でもあるこの隔たりこそが、何かを語ろうとすることを衝き動かしていることを指摘しているのではないだろうか。
 このようなことを考えながら、ベンヤミンのテクストに向きあっているところである。そんな時間がもてる日は、もうわずかなのかもしれないけれども。そろそろ後期の講義の準備にも取りかからなければならないし……。
 そう言えば、週末までにヴィオラの練習もしておかないと……。さっそく忙しくなりそうである。

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「近代」を問いただす新書二題

 鹿児島へ帰省しているあいだ、最近出た新書を二冊読み終えた。
 一冊は徐京植の『ディアスポラ紀行──追放された者のまなざし』(岩波書店)。「近代の奴隷貿易、植民地支配、地域紛争や世界戦争、市場経済グローバリズムなど、何らかの外的な理由によって、多くの場合暴力的に、自らが本来属していた共同体から離散することを余儀なくされた人々、およびその末裔」と定義される「ディアスポラ」たちの生の痕跡を、あるいは彼/彼女たちが受けた暴力の痕跡を、現代美術をはじめ、音楽、文学など芸術作品のうちに、あるいは芸術家たちの生きざまのうちに探る、ロンドン、光州、カッセルなどへの旅の軌跡を描くエッセイである。自明な家郷をもたず、自分は何者なのか、自分が話す言葉はいかなる言語なのかをつねに問いつづけなければならず、それゆえ生につなぎ止める絆は弱く、存在証明と死のあいだを漂いつづけなければならない一人の「ディアスポラ」、すなわち在日朝鮮人二世として、徐はここで、こうした「ディアスポラ」たちの生の痕跡を読み解くことをつうじて、「国民国家」や「植民地主義」の「近代」の歪みや矛盾を鋭く照らし出すとともに、その先に「植民地主義やレイシズムが押し付けるすべての理不尽が起こってはいけないところ」としての「真実のくに」というユートピアを遠望している。
 そのような徐の省察をたどりながら、彼がヴァーグナーの音楽にアンビヴァレントな感情を抱きつつ惹かれていること、最近そのヒロシマ賞受賞展を見たシリン・ネシャットが光州ビエンナーレでもグランプリを獲得していることなどを知ったのだけれども、とくに印象に残ったのは、パウル・ツェランの詩作に寄せた一節である。徐は、ツェランがみずからの詩を「投壜通信」にたとえていることに触れて、それは「いま目の前にいるドイツ語を解する人々に自分の詩が受け容れられることはほとんど期待していないということではないか」と指摘している。自分のホームページに「投壜通信」というタイトルを付けているわたし自身にもそうした思いがないかと訊かれるなら、とても否認できない。たしかに「国語」としての「日本語」を話す「日本人」に読んでもらいたいなどとはまったく思わない。いつか誰かが書いたものを拾ってくれるかもしれない。その誰かがそういう「日本人」である必要はどこにもないのだ。
 徐によると、ツェランは「生まれ育った多言語・多文化の領域(多様な言語文化が息づいていた故郷のチェルノヴィッツ)が諸国家の暴力によって破壊され、精神的なきずなとしての「母語の共同体」が消滅した後も、詩人は母語そのものを自らの「母国」とし、また、詩を書くという行為そのものを「母国」として、終わりのない放浪を続けた」。わたしは、そのあてどない旅のあいだも、ツェランはその「母語」を、それとともに詩作という「母国」をつねに問いなおしては生成させ続けていた、と考えたい。だからこそ、その旅は「終わりのない放浪」なのではないか。そしてそう考えるとき、「母語」、「母国」といった言い方にはやはり違和感をおぼえる。とはいえ、ツェランの詩作についての徐の省察は、このようなあてどのない「ディアスポラ」の旅の軌跡のうちに、「近代」の桎梏を突き抜ける可能性が秘められていることを気づかせるとともに、現実には彼のいう「ディアスポラ」ではない自分が、その可能性を引き受けて終わりのない旅へ一歩を踏み出すことを勇気づけるものだった、と言わなければならない。
 ところで、鹿児島で読んだもう一冊の新書は、目取真俊の『沖縄「戦後」ゼロ年』(NHK生活人新書)である。こちらは、今も続く「日本」の「近代」によって「本土」のための犠牲にされつづけている沖縄人、それも肉親から60年前の沖縄戦の記憶を継承する沖縄人の視点から、今や「戦後」でも「戦前」でもなく、「戦時」にほかならない今につながる「日本」の「近代」の問題を、厳しく問いただすとともに、目取真俊という作家の創作活動の背景もうかがわせる一冊である。
 今なお「本土」の「防波堤」として、日本全体の75パーセントの米軍基地を抱える沖縄に身を置くとき、日本がアメリカの「テロとの戦争」に自衛隊の対外派遣をもって加担する今が、「戦時」にほかならないことが浮かびあがってくる。そして、その今と沖縄戦の過去を関係づけるとき、軍隊が市民をけっして守らないことを露呈させ、あまりにも多くの沖縄の若者を「国のため」の死に追いやった沖縄戦の問題が何ひとつ解決されていないことも見とおされてくる。そう、沖縄戦はほんとうは終わっていないのだ。では、「戦後60年」の今を「戦後ゼロ年」にするためにはどうすればよいのか。まずは沖縄戦が露わにした問題が解決されていないこと、否、それどころか「基地問題」というかたちで沖縄の人びとのうちに抱え込まれたままだということを見抜かなければならない。現在に戦争の過去を──場合によっては身体のうちに──執拗に差し挟み、時の流れを寸断する目取真俊の小説の書き方は、それを見とおすきっかけをもたらそうとするものなのかもしれない。
 もう一つ目取真がここで照らし出しているのは、沖縄を「癒しの島」として喧伝するイデオロギーが、沖縄が抱えている問題を覆い隠すばかりか、沖縄を「捨て石」とし、犠牲にすることを可能にしてきた沖縄の人びとに対する「本土住民」による差別を隠蔽するイデオロギーにほかならないことである。さらに彼は、このイデオロギーによる沖縄文化の神話化が、天皇制を神話化するナショナリズム、さらには文部科学省が押し進めようとする「心の教育」による「国のため」に命を捧げる「国民」の訓育とも共犯関係にある、ということも指摘している。
 目取真俊の『沖縄「戦後」ゼロ年』。沖縄を訪れるなら、その前に必ず読んでおかなければならない一冊と思われる。

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ラーメン二題と「そうめん流し」

 鹿児島への帰省の途中で久留米に立ち寄ったついでに久留米ラーメンなるものも試してみたいと思い、宿の近くの店を探してみた。西鉄久留米駅近くのホテルに投宿したので、その近辺のラーメン屋を探してみたら、見つかったのは「大砲ラーメン本店」。博多のキャナルシティなんかにも店を出している大手の老舗らしい。地元の人はもっとこぢんまりしたいい店を知っているのだろうが、いちげんさんは、バイトの店員の声がうるさく、家族連れも来る店にひとまず腰を落ち着けた次第。とはいえ味が悪いわけではない。
 久留米ラーメンは、わたしが知っているかぎりの博多ラーメンと比べるなら、麺が心もち太くて、スープも少し濃い感じ。屋台なんかでひととおり飲み食いした後に食べるには重いだろうか。それはともかく、「大砲ラーメン」のスープはかなりこくがありながら、辛すぎず、なかなかの味。麺も、眼の前でおじさんが湯に浸けたカゴから麺を天井近くまで放り投げ、それをザルで見事に受ける湯切りの様子を見せられると、なんだか美味しく思われる。これは錯覚なのだろうけど……なかなか食べごたえのあるラーメンであった。
 さて、鹿児島でラーメンというと、ここのところいつも市内の交通局近くの、その名も「らーめん家」という店に行っている。鹿児島のラーメンは、豚骨のスープとはいえ、やや薄めで醤油の味がするものだけれど、ここのスープはやはり薄めながらどちらかというと塩味がまさっている感じ。濃すぎず、食べ飽きない味だ。麺は、久留米に比べても太めである。鹿児島ラーメンにつきものの、もやしと焦がしネギ(店によっては薄切りの木耳も加わる)は入っているし、チャーシューも美味しい。家族経営のこぢんまりとした店である(だから見つけるのは難しい)。
 今回の帰省では、何年かぶりに開聞岳近くの唐船峡のそうめん流しにも行ってみた。竹の樋に一直線にそうめんを流す一般的な「流しソーメン」ではなく、回転式の水槽(当地の特許だそうな)にそうめんをぐるぐる流す「そうめん流し」である。水槽の水が冷たいので──ザルに盛られたそうめんがくっついてしまわないかぎりで──ゆっくり楽しめるし、早く流れる水からでも意外にうまく箸に取れるものである。これとニジマスの塩焼きが当地の名物なのだが、小さいころのわたしは、どちらかというと泳いでいるニジマスを見るのに夢中になっていた。今回も大きくて色鮮やかな一匹に眼を惹きつけられたが、その運命やいかに。
 唐船峡から帰る途中、枕崎の「なぎさ温泉」という銭湯を訪れた。鄙びた感じの、お世辞にもきれいとは言えない温泉であるが、その露天風呂からの景色がすばらしい。枕崎の港とそこから広がる太平洋が一望できる。温泉に浸かりながら水平線を眺められるというわけだ。今回は傾いてきた日を映す水面の色を堪能した。露天風呂から左手を見ると、小高い丘があるのだけれども、その木立のあいだからも水平線をのぞき見ることができる。何とも不思議な光景である。これを裸で眺めていると、ちょっぴり居心地が悪くなる。

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美術館二題と「デ・キリコ展」

 鹿児島へ帰省するついでに二つの美術館の常設展を見ることができた。途中で立ち寄った久留米の石橋美術館と鹿児島に滞在しているあいだ、ドライブのついでに訪れた指宿の岩崎美術館である。
 石橋美術館で佐伯祐三の作品に触れることができたのは幸運だった。広告のポスターが幾重にも貼られたパリの街角を描いた絵が一枚あったが、そのポスターの文字の線の速度が眼を惹く。本来印刷され、複製されたはずの文字が凄まじいまでの速さを示している。そのことによって、その文字が都市の生の痕跡にほかならないことが示されているのだろうか。もしかすると佐伯は、速度を感じさせる筆致によって、都市の生の儚さをも表現しようとしているのかもしれない。この絵を見ながら、キルヒナーの「ポツダム広場」を思い起こしたのは偶然だろうか。
 佐伯祐三以外ではやはり青木繁の絵の力強さが印象的である。とりわけ早世した彼が自画像において、極めて表現主義的な筆致で自己の存在を証明しようとしているのには思わず立ち止まらされた。あの「海の幸」のうちにも、形態をはみ出そうとする生の充溢と、それを何とかかたちのうちに押しとどめようとする輪郭線との抗争を見るべきなのかもしれない。それ以外の神話的形象を主題とする絵に関しては、エミール・ノルデとの比較を試みたくなる。
 この二人のほかに面白かったのは、青木と同じ久留米出身の古賀春江の素朴にシュールレアルないくつかの作品くらいだろうか。クレーを思わせる一枚も印象的だった。ちなみに、石橋美術館の別館では、「琉球の美」というテーマの特別展も開催されていて、陶磁器、漆器、織物にわたる多彩な琉球工芸の魅力に触れることができた。とくに紅型の渋味を帯びた生地から浮かびあがる華やかな柄に惹きつけられたところ。美しい彩色の施された抱瓶(腰に提げる泡盛を入れるための容器)も面白かったけれど、そう言えば高円寺に「抱瓶」という沖縄風の居酒屋があった。今でも繁盛しているのかしらん。
 指宿の岩崎美術館は、残念ながら期待外れと言わざるをえない。見るべき作品は、マティスの大作「ラ・ポエジー」くらい。さすがにこの作品、文学作品の朗読に三人の女性が耳を傾けている風景という主題を越えた、形態と色彩のリズムが眼を惹きつける。もう一つ強いて挙げるなら、ブラマンクの「雪の道」くらいか。冷たく肌に突き刺さりそうな風が吹きすさぶ情景を描く筆致の巧みさは見事。展示されているそれ以外の絵、とくに日本の近代絵画は、個人的にまったく面白くない。おまけに展示の仕方からも、その魅力を伝えようという熱意が感じられないのだ。併設されているニューギニアの神像や、ヨーロッパの万国博覧会に出品されていた薩摩焼(「里帰り薩摩」)の置かれた工芸館のほうが面白かったくらい。とくに後者には、西洋人のオリエンタリズムの投影と、ユーゲント様式と、近代性の追求との融合が見られて面白かった。
 ちょっと冷たい結論を言うと、岩崎美術館は、同じ敷地にある殿様商売のリゾートホテルの宿泊客が暇つぶしに訪れる施設の域を出ない。展示されている作品の質は、鹿児島市内の長島美術館のほうがはるかに高い。
 最後に、小倉の北九州市立美術館(分館)で開催されていた「デ・キリコ展」のことに触れておこう。鹿児島からの帰りがけに立ち寄ったのだが、一見して晩年のキリコの作品をこれだけまとまったかたちで見られるのは、まれな機会なのではないかと思った。しかしながら、晩年のキリコの世界に入ってゆくのは、わたしには非常に困難だった。あまりにも多くの観念が、あまりにも明瞭な形態のうちに詰め込まれているように思われたのだ。しかも、その観念というのが、さまざまに異質なものたちを一個の神話的形象のうちに押し込め、それらの多様性を圧殺するものに思えてならないのだ(展示に付された、キリコ研究者によるオリエンタリズム丸出しの解説がそのような印象を助長する)。キリコの世界の「形而上」性が虚構であることが、晩年になってより目立っている気がする。その明瞭さは、晩年のニーチェがビゼーの世界のうちに見いだした鮮烈な明るさの対極にあるものだろう。絵画とともに、絵画と同じ主題をあつかった彫刻作品が展示されていたが、どちらかというとこちらのほうにキリコの美質がより魅力的に現われているように思われた。
 

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ちょっと骨休め

 今日これから車で鹿児島の実家へ帰省する。およそ1年ぶりの鹿児島である。
 とにかく、温泉(といってもただの銭湯だけれども・・・火山だらけの鹿児島では銭湯は「温泉」であり、そこには天然の温泉が出ているというわけ)に浸かってはごろごろしたい、と思うのは、正直なところ、肉体的にも精神的にも疲れ果ててしまったからである。研究発表や原稿の締め切りが8月まで立て続けにあったうえに、講義の期間が延びた(期末試験期間が終わったのは一昨日のこと)せいもあるのかもしれない。でも、どうもそれだけではない気がしてならない。広島にいるとなんだか気が鬱いで疲れてくるのだ。トシのせいかしらん。
 高速道路でまず久留米まで行って、まだ訪れたことのなかった石橋美術館を観てから鹿児島へ向かう予定。そうそう久留米ラーメンも忘れないようにしないと。博多や鹿児島のラーメンとどうちがうのだろう。
 妻は水着をもって行くとのたまっているので、そうごろごろしてもいられないかもしれない。何日かは車を鹿児島のあちこちへ走らせることになるだろう。その顛末など、またここに書くかもしれない。
 とにかく骨休め。パソコンももって行かない。というわけでこのブログ、10日ほどお休みさせていただきます。お読みになっている方がおられたら、ご海容のほどお願い申しあげます。

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守中高明の『法』

 前から気になっていた守中高明の『法』(岩波書店)をようやく読むことができた。法そのものについてだけでなく、法と言語のかかわりとともに、法をめぐる自己と他者の関係をも、現代的なコンテクストのなかで考えさせる読みごたえのある一冊と言えよう。とりわけ、現代日本における法、とりわけ憲法をめぐる深刻な問題を含んだ状況を批判的に浮かびあがらせながら、法自体に内在する力ないし暴力を見すえたうえで、法をその可能性において問題化している点が印象に残る。
 ハート、ルーマン、デリダの法理論を突き合わせて、法についての現代的な議論のコンテクストを浮かびあがらせたなかで、ベンヤミンの「暴力批判論」を読みかえし、彼が「神的暴力」と呼ぼうとした、法の内側からその自己措定的にして自己保存的な「神話的暴力」を中断させる力を「市民的不服従」のうちに探る守中の思考は、さらに現代の日本のなかで不服従の「原−形象」アンティゴネーのように生きる可能性を見届けようとする。守中は、国旗と国歌の強制やいわゆる「有事法制」など、現代日本における、国家権力の犠牲となる「国民」の訓育が押し進められつつある状況を象徴する問題を抉り出したうえで、それに対する非暴力的抵抗の可能性を、「歓待の掟」にもとづいて「来たるべき正義」を求める法の脱構築のうちに求めるのである。
 他者を歓待するとき、他者を迎え入れる者の自己が、そのアイデンティティが動揺させられ、さらにその言語、とりわけその母語の同化の暴力が問いただされる。そして、レヴィナスが指摘するように、「言語活動の本質とは友愛と歓待である」ことを見つめなおすことが迫られるのである。その際、この「友愛と歓待」を実践する翻訳の可能性が問われなければならないのは言うまでもない。それは、差し迫った問題でもある。脱−固有化としての「歓待の掟」は今日本で、難民たちの歓待というかたちで実現されなければならないのだ。さらに守中高明は、歓待への問いを、死刑への問いへ結びつけてゆく。「同害刑罰」という「計算」の彼方にある他者との関係、とくに赦しという観点から、日本に今も権力の存続のために生き存えている死刑が問いただされなければならないのだ。
 このように、法をめぐるアクチュアルな問題を浮かびあがらせながら、法そのものについての省察というかたちでそれに立ち向かおうとする守中高明の強靱にして繊細な思考は、前著『脱構築』のときと同様、ベンヤミンにもとづいて言語をその可能性において問う自分自身の思考を現代のコンテクストのなかに位置づけ、問いただす大きな刺激となった。
 最後にこの『法』のなかで最も印象深い言葉を引いておきたい。「「市民的不服従」の賭札はいたるところにある。クレオーンの法に叛き、来たるべき真実の法の到来に賭けてひとすじの弔いの砂をさらさらと落としたあのアンティゴネーの白い指先は、われわれの未来に属しているのである」。

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香月泰男の絵

 ひろしま美術館で開催されている「香月泰男展」を見に行った。
 山口県の三隅に生まれたこの画家のことはこれまでほとんど知らなかった。シベリアに抑留された経験をもち、その経験を描いた絵があることくらいしか頭になかったのである。しかし、その絵を実際に目のあたりにしたとき、同時代の美術の潮流に背を向けるかのようにして自分自身とその「地球」(香月の作品には、「私の地球」という題で身近な人や事物を温かなまなざしで描いた絵のシリーズもある)を描きつづけたこの画家の重要性を認識しないわけにはいかなかった。
 今回、1945年の8月から1947年5月に至るシベリア抑留の経験を描き、みずからの言葉を添えた「シベリア・シリーズ」の大部分に接することができたのは幸運だった。当時の感情と収容所の空気の重苦しさを一つながらに表現するかのように絵の具を厚く塗り重ねたなかから色彩や形態を浮かびあがらせる、香月の晩年様式の絵がとりわけ印象に残る。なかでも惹かれたのが、「青い太陽」(1969)と題された作品。彼は、収容所のくまなく監視された剥き出しの生を生きるなかで、みずからの身を隠す巣穴をもった蟻に憧れたという。その巣穴から仰ぎ見られる空を描いたのが、この作品とか。巣穴の暗さと、そこからのぞき見られた空の柔らかな青とのコントラストが、彼の飾らない憧れを見事に描き出しているように思われた。
 これと対照的な作品として印象的だったのが、「業火」(1970)と題された作品。日本敗戦の際に住民の手によって火を放たれた兵舎が燃える様子が描かれている。その炎の赤は恐ろしいまでの動きを示しているように見えた。火を放った人びとの憎しみが止めどなく湧き出して、燃えさかっているかのように見えたのだ。
 彼が、収容所で死んだ仲間を悼んで描いた作品にも立ち止まらされた。とくに「涅槃」(1960)と題された作品では、暗い色調のなかに、ほとんど幾何学的な形態にまで彫りあげられたかのような仲間たちの死相が浮かんでいた。顔の切りつめられたフォルムは、この死者たちが名前を失い、それぞれの人格を奪われたなかで餓えと疲労に苦しまなければならなかったことを示しているのだろうか。裏返しのセザンヌとでも呼ぶべき表現。
 こうした死者たちの顔は、香月の脳裏に繰り返し浮かんでいたようだ。帰還を前にしてナホトカの渚にシベリアの囚人たちが集まっているなかにも、その顔は回帰している。生きているはずの人びとの顔が、香月自身認めるように、幾何学的な死者の顔になっているのである。
 こうして「シベリア・シリーズ」を見てくると、香月は、凄惨な抑留生活を経験しながらも、声高なメッセージを発することなく、静かに、みずからの様式を練り上げながら、自分自身の経験に向きあっているように思われる。そうした彼の歩みを、同じくシベリアに抑留された経験を言葉にしていた石原吉郎のそれと対照させてみたい誘惑に駆られているところである。

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管啓次郎と翻訳

 最近読んで面白かった本のなかに、管啓次郎の『コヨーテ読書──翻訳・放浪・批評』がある。最近では移民や亡命者たちの作品を中心に、アメリカのマイノリティの文学の翻訳を手がけている彼の、言語への深い洞察にもとづいて翻訳すること自体を論じたエッセイとともに、生活に根ざしたマイノリティたちの文学の世界への想像力をかき立てるエッセイの数々も収められていて、久しぶりに読書の楽しみを味わうことができたし、また言語について考える刺激も得られた。何よりも、言語の、というよりも言葉を語ることの深層に翻訳を見届け、また翻訳を通過すること、さらに言えば翻訳を経験することを、文学にとって根源的な経験として語っている点に共感する。
 「翻訳人、新しいヨナたち」と題されたエッセイで、彼は白鳥正宗と小林秀雄に触れながらこう述べている。「ここで「翻訳」という言葉に、少なくともふたつの層を区別したほうがいいかもしれない。積極的に翻訳をおこなうことを活動の中心にすえる決意をする批評家がここで念頭に置く翻訳が、そのもっとも根源的な層においては、単に外国語で語られた思弁の反復や理論の適用などではないことは、明らかだろう。あらゆる思考の発生の瞬間にある翻訳──見慣れないもの、徹底して異質なものを稲妻の閃光のうちに見とり、本当には語りえないその残像を言葉で包囲しながら、暴力的に切りつめ、精密さを断念しつつ文の網にすくいとってゆく行為──に、彼はここでふれている。/そうした翻訳にとっては、じつはオリジナルが外国語か自国語かというちがいは、結局どちらでもいい。けれども同時に、通常の意味での「翻訳」という行為がもつ圧倒的な厚みと力を無視することはできない。外国語と格闘し、あるいはその翻訳文(それはすでに一種の外国語だ)を苦労しつつ読むという抵抗に満ちた迂回を経てはじめて、人は自国語内の翻訳というぎこちなく苛立たしい経験さえも発見できるのだ、いかに多くの言葉が、われわれにとっては見慣れないものであることか。あるいは、その見慣れなさが突如として流れる水晶の輝きをおび、われわれの生に(たとえそれ自体は無意味であっても)輝かしい読点を打つことか。そうした経験がたしかにあると信じられるからには、小林のいう「翻訳文学者」を単に「文学者」と呼んでもさしつかえないだろう。それは異質な思考、異質な言葉のアレンジメントを、ある言語に注入しようと試みる者のことだ。「国語」の安定に奉仕し、飼い馴らされた文章の整然としたふるまいのみを期待する者は、「文学」という経験の動揺にはそもそも何の関係もない。あるいは「翻訳」という迂回がないところに、「文学」はない」。とても長い引用になってしまったが、翻訳についてのまれに見る深い洞察を示す言葉として、引いておきたかった次第である。
 このような言語の生成の根源に翻訳を見届け、その視点からいわゆる翻訳を見つめなおす洞察を、管は自身の実践に活かしている。彼は、マイノリティの文学者が英語、スペイン語、ポルトガル語といった複数の言語を行き来しながら自分の世界を織りなす言語を生成させているさまを、みずからが行なう翻訳のうちにすくい取ろうと試みているのだ。その作業日誌とも呼ぶべきエッセイも、じつに興味深い。
 「一つの言語(たとえば英語)で書いていようとも、その英語使用の影で表面化せずにとどまっている時間的・空間的コンテクストと、そこに響きわたる他のさまざまな言葉を、救出しようとする態度」としての「オムニフォン」を論じた管の近著も読んでみたいと思っている。

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ユンカーマン監督と「日本国憲法」

 8月6日、被爆60年の日の平和祈念式典が行われた平和公園の川向かいにある中国新聞社へ、ジャン・ユンカーマン監督の映画「日本国憲法」を見に行く。見に来ている人の数は少ない。どういう宣伝の仕方をしたのか、と思うが、広島にいると、東京なら満員御礼になりそうなイベントがガラガラというケースは少なくない。もっともこれが、広島の人びとの憲法と映画への関心の低さをそのまま映し出すものだとすれば由々しき問題だろう。
 映画のなかには、鹿児島で一度その話を聴いたことのあるベアテ・シロタ−ゴードンのような憲法起草に関わった人びと、日高六郎のような憲法発布までのプロセスを見届けた日本人、ジョン・ダワーをはじめ日本の戦後を見つめてきたアメリカの知識人、さらには日本を見つめるアジアの知識人や活動家が出演していた。それぞれの視点から「日本国憲法」を語っていた彼/彼女たちが共通して指摘していたのは、「憲法改正」問題が──「靖国問題」と同様に──けっして日本国内の問題ではない、ということである。憲法第9条は、日本が明治期以来、とりわけ1931年以降1945年まで行なってきた戦争の過ちを認め、もはやそのような戦争を行なう国家にならないことを、世界へ向けて、なかんずくアジアの国々へ向けて宣誓するものだった。それを変えることは、対外的にどのようなことを意味するのか。映画に出演していた人びとの多くが、アジアの人びとの不安をかき立て、アジア地域の緊張を高め、平和を壊す危険を指摘していた。
 さて、ある意味で映画以上に印象的だったのが、上映に引き続いて行なわれたユンカーマン監督の講演だった。彼が「チョムスキー9・11」や「日本国憲法」のようなドキュメンタリーを撮り始めることの出発点にあるのは、ベトナム戦争、とりわけそれに対する反戦運動にコミットした経験であるという。彼はそのことを引き合いに出しながら、「戦争が終わると忘却が始まる」という言葉を引いて、アメリカが30年後にベトナム戦争と同じ過ちをイラクで繰り返していることを批判していたが、その言葉は9条の精神を捨て去ろうとしているわたしたちに向けられたものとして受けとめられなければなるまい。
 さらにユンカーマン監督は、「原爆の図」を描いた丸木位里のことを取材した映画「業火」のことも語ってくれた。丸木は地獄を描いた絵のなかに、ヒトラーや日本の戦時中の権力者ばかりでなく、自分自身も描き込んでいた。それはなぜかと尋ねたユンカーマンに対し、丸木は、自分は戦争を止められなかったから、と答えたという。彼の一連の画業は、彼自身の政治的責任の深い自覚にももとづいていたのだ。そのような丸木の経験を、わたしたちは苦く噛みしめなければならない。歴史的な戦前と決別することなく「戦後」が「戦前」になった今を招き寄せた、自分自身の責任を正視しなければならないのだ。そして、あの9・11に衆議院議員と政権を選ぶわたしたちひとりひとりの政治的責任はきわめて重いと言わなければならない。

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幸運という名の女性

  先月末、二度にわたってコロンビア大学のキャロル・グラックの話を聴くことができた。日本近代史を専攻し、日本語を巧みに操る彼女は、一般向けの講演では、日本語で講演したうえ、明確な日本語で会場からの質問に応じていた。そして、広島国際会議場で行われたシンポジウムの折には、これまた明確な英語で、平和へ向けてヒロシマの記憶を普遍化する希望を決然と語りかけていた。そうした彼女の学者としての態度、とりわけどのような質問も真摯に受けとめようとする態度には感銘を受けるとともに、学ばせられた。
 二度にわたる講演のなかで、彼女が一貫して強調していたのは、ヒロシマにまつわる単純化された内向きの「被害者」物語を乗り越え、それを解体して、普遍的に、人類へ向けて平和を呼びかけるようなヒロシマの「パブリック・メモリー」を形成する可能性である。その責任をとりわけ若い世代が引き受けていけるために考慮しなければならない条件を彼女は三つ挙げていた。第一は、戦争や原爆の記憶はその地域を越えなければならない、ということ。第二は、歴史を語る枠組みを広げ、一つの戦争をたの戦争と結びつけること。第三は、ナショナル・メモリーないしナショナル・ヒストリーという制約を乗り越えて、さまざまな記憶が響きあうのを聴き出すこと。
 第二の条件に関して、わたしは、彼女の同僚だったエドワード・サイードが『知識人とは何か』のなかで述べていたことを思い出す。そこで彼は、一つの苦難の出来事を、他の苦難の出来事と結びつけながら、そこに或る問題を人類の問題として提起することの重要性を語っていたのだ。また、第三の条件に関しては、テッサ・モーリス−スズキが語っている「歴史の真摯さ」を思い出す。単純なひと続きの「国民の歴史」を解体して、それが抑圧するさまざまな記憶の配置を、その複雑さを捨象することなく描き出していかなければならない。そうした条件を踏まえながら、「未来を記憶する」こと。キャロル・グラックのこの言い方を、わたしなりにパラフレーズするなら、わたしたちの未来へ向けて、さまざまな記憶の抗争をはじめ歴史的プロセスにまつわる複雑さをけっして捨象することなく、過去の出来事を地域を越えた普遍性へ向けて記憶してゆくこと、そうして世界的な「パブリック・メモリー」を形成すること、ということになると考えられる。それをつうじてこそ、「ヒロシマ」も「ホロコースト(ショアー)」に比肩する普遍性を獲得するのかもしれない。このような彼女の話を聴いたのにもとづいて、「ヒロシマ」を記憶することについて考えてみたことは、以下のURLに掲載しておいた。http://homepage.mac.com/nob.kakigi/Memory_of_Hiroshima.htm
 ところで、講演の後、彼女と個人的にいろいろ話をすることができたのは大きな幸運だった。ヴァルター・ベンヤミンについてのわたしの仕事に大きな関心を示してくれたし。シンポジウムの後でいくつか論文を渡したら喜んでくれた。
 それからしばらくして、彼女からメールが届いた。「このあいだは、あなたの仕事の話も聞けて嬉しかったわ。あなたのハイデガーとベンヤミンについてのエッセイも楽しみにしているのよ」。同封しそこねたその古い論文を探し出して送ったことは言うまでもない。
 ちなみにキャロル・グラックのファミリー・ネームGluckは、もとはドイツ語で「幸運」や「幸せ」を意味する語だろう。幸運という名の女性との出会い、大切に胸に刻んでおかなければならない。

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シリン・ネシャットという映像作家

 2週間ほど前のことになるが、第6回のヒロシマ賞を受賞したイラン出身の映像作家シリン・ネシャットの展覧会を広島市現代美術館へ見に行った。当日は展覧会初日ということもあって、このアーティストの講演会もあり、彼女から直接興味深い話を聞くことができた。
 展示というか上映されていた作品のなかでまず印象的だったのが、「荒れ狂う(Turbulent)」と題された作品。対面する二つのスクリーンが置かれ、一方のスクリーンでは男性歌手が観客の前で、もう一方のスクリーンでは女性の歌手(?)が誰もいない劇場の舞台で歌っている。何よりも惹きつけられたのがこの女性のヴォイス・パフォーマンスだった。何か歌詞を歌うわけではない。心の奥底から湧きあがる、自然の胎動を表現するかのような豊饒なヴォカリーズ。そこからはたしかに、「女性」ないし「母性」に対するある種の本質主義を感じ取らないわけにはいかなかったのだけれども、その表現の力には圧倒された。とはいえ、ネシャットがこの声とともに映し出そうとしているのは、女性が誰に向けても歌えないことである。そこにあったのは、パブリックな場で歌うことを禁じられた女性の、聴く者のない叫びだったのだ。
 男性歌手のほうはというと、多くの観客を前に、歌詞のある、日本の演歌のようなポピュラーな歌を歌って喝采を浴びるのだが、そのようなコントラストは、「歓喜(Rapture)」という題の作品にも引き継がれる。そこで男性は、伝統的な、かつよくありがちな行進、取っ組みあい、礼拝を繰り返す。こうしたコンフォーミスティックな男性の姿を尻目に、女性たちは船で別の世界へと旅立ってゆくのである。
 こうした男性と女性のすれ違いが演じられる二つのスクリーンのあいだに見る者は立たされるわけだが、そうするとだんだんと、男性と女性のあいだにある深淵に身を置いているかのような感情に襲われる。ネシャットによると、「荒れ狂う」と「歓喜」は、「熱情」という今回展示されなかった作品とともに、三部作を構成している。それは男性と女性のあいだの隔たりを描ききろうとする三部作なのかもしれない。
 三部作と聞いて、わたしはテオ・アンゲロプロスの「エレニの旅」に始まる三部作と、プッチーニの「三部作」のことを思い出さないわけにいかなかった。ギリシア悲劇に始まる三部作という形式、これについてはまた稿をあらためて論じなければなるまい。
 さて、もう一つ印象に残った作品、ミニマル・ミュージックの作曲家フィリップ・グラスとのコラボレーションによる「パッセージ(Passage)」では、先の三部作とは対照的に、喪の仕事を、男性と女性がそれぞれ異なった仕方で、協働してなし遂げようとするさまが表現される。男たちは遺骸を担ぎ、女たちは祈りながら埋葬のための穴を掘り、その傍らでは少女が石を積んでいる。そして最後には、遺骸が埋葬の場に到着して、この三者が一つの画面に集結するのだが、その瞬間に炎の弧が男性と女性を取り囲むのだ。哀しみ──それはネシャットにとってパレスチナの問題のうちにある哀しみでもあるという──をくぐり抜けたところにある連帯の希望を伝えようとするかのようなこの映像表現は、グラスの音楽と相まって、見る者の感情を燃え立たせるものに仕上がっていた。
 このように、たとえば男性と女性のように対立しあうものどうしが、それぞれ異なったものとして結びつく、あるいは連帯する姿を表現する映像言語を、今ネシャットは模索しているようだ。講演のなかでネシャットは、ノマド、そして生き残りとして、新たな言語を発明しようとしている、つまり中心と家をもたない者として、新たなシンボリズム──たしかに彼女の作品には象徴主義的な美しさもないわけではない──の形式を実験しているところだ、と語っていた。そのように亡命者として自分の新たな言語を探し求める姿には、わたし自身深く共感するところである。

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細川俊夫の言葉づかい

 最近広島で作曲家の細川俊夫の謦咳に接することができた。そのことを記しておきたい。
 もう一か月前のことになるが、「ヒロシマ、声なき声」の日本初演のために広島を訪れていた彼は、その三日前にプレ・トークを行なった。そこで細川はまず、前世紀における無調の新しい音楽の文法の模索に触れながら、自分が今、日本に、それも広島に生まれた者としてこの時代の新しい響きを響かせるような、新しい音楽の文法を模索する必然性を語っていた。その際、五音音階のうちに「日本的」なものを見るようなオリエンタリズムを排して、日本のうちにある深い音の文化ないし伝統の水脈を、自分がこれまで学んできた、基本的には西洋現代の音楽の語法で探り当てようとするのだという。そのような音楽の言葉づかいを、彼は探求しているのだ。
 細川の音楽の語法は、彼自身が表明しているように、書のそれと強い親近性をもっている。彼の音楽は余白のなかに垂直に打ち込まれるところから、滲みやかすれをともなって展開してゆくのだ。かすれということで思い起こされるのは、彼が尺八特有の、呼気音の、西洋音楽の視点から見ればノイズを含んだ音のうちに、自然の生命との近さを見て取っていたことである。細川の音楽の時間は、西洋の音楽のように水平的かつ直線的に流れることはない。むしろ書を書くような呼吸と深く結びつきながら、垂直的な深みをもった螺旋を描いてゆく。彼は、打ち込みとしてのとどまる今の停滞から波打つように螺旋を描く時間の展開を、音楽で表現したいのかもしれない。その運動は、「循環する海」のような作品では、寄せてはかえす波の動きとも重なることだろう。
 このような、自分自身の根源であるような自然の深みへ立ちかえり、そこから新たな音楽を聴き出そうとする、細川のある意味で特殊で個人的な身ぶりが、彼の音楽の現在の普遍性に結びついているのだろう。そして、7月6日に聴いた「ヒロシマ、声なき声」では、彼のそうした態度が、ヒロシマのグラウンド・ゼロの沈黙から何かを聴き出すものでもあることも示されていたと言えよう。歌の途絶を表現することで、「21世紀にオラトリオという形式でどのような音楽が可能か」という問いに答えようとする「ヒロシマ、声なき声」、それはまたヒロシマから今発信されるべき新しい音楽の可能性を開く作品にほかならない。

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二つの青葉の交響

 広島の中心街にほど近い幟町というところにあるそのフランス料理店を初めて訪れたのは、二年前の誕生日のことだった。すっきりとしたなかにアクセントの利いた魚料理が印象的だったのだが、以来なかなか訪れることができずにいた。気になってはいたのだけれども。
 その店を、今夜誕生日のディナーのために久しぶりに訪れることができたのだった。基本的にあっさりとしたなかでさまざまなアクセントを楽しませる料理を妻と堪能したところである。
 今夜の白眉もやはり魚料理。夏野菜のラタトゥイユにゴマの香りのするイサキのポアレが載った一皿の味がとりわけ印象に残ったのである。
 そこには二種類のソースが添えられていて、一種類はカラメル、もう一種類は青葉の緑のソース。その両者の味をゴマの香ばしさと対照させて楽しむこともできれば、非常にあっさりしたイサキの味のアクセントとしても楽しむことができる。とりわけ面白かったのが青葉のソース。何でも大葉とバジルで作ったとか。そう言われればたしかに、二つの香りのあいだで微妙に揺れ動くかのような香りが漂う。これが実に柔らかなアクセントとして利いていたのだ。
 それを楽しみながら、わが家の庭にも大葉とバジルが茂っているのを思い出した。この両者をミキサーにかけて和風ジェノベーゼのようなパスタを作ったら、この二種類の青葉はどのように交響するのかしらん。
 和風といえば、この魚料理の前に供された冷製のコーンポタージュ、清涼感とこくの共存する一品だったが、どこか和風の味わいも感じとらずにはいられなかった。このレストランのシェフの味づくりは、旬の素材を生かすためだろうか、和風の味にいくぶん傾いている感じはする。
 すっきりとした味を基調としながら、そのなかでさまざまなアクセントも楽しませてくれるこの幟町のフランス料理店、名前は内緒にしておこう。そうした味づくりとの関係を感じさせる名前であることだけは言い添えておきたい。

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残された日々のために

 のっけから私事にわたり恐縮だが、今日わたしは誕生日を迎えた。それで何歳になったかは読者のご想像におまかせするとして、少なくとも言えるのは、わたしに残された日々はそう多くはない、ということである。「平均余命」というものから見積もっても、もう人生の半分は──恐ろしく不本意なかたちで──いそいそと生き終えてしまった。
 以前よりも生の終わりがはっきりと差し迫ってきている。おそらくそのことと、今わたしが自分自身のさまざまな衰えを、身体的な実感として受け容れざるをえなくなっていることは無関係ではないはずだ。わたしのなかの他者たちがこれまでにない大きな声を立て始め、それとともに、これまでになくさまざまに限界づけられた自分を引き受けざるをえなくなっているし、またそうした自分の可能性に賭けざるをえなくなっているのである。
 そのような思いが今、わたしをさまざまな出会いをここに書き残すことに駆り立てている。他の人びととの出会い、書物との出会い、芸術作品の出会い、あるいは旅先でのこれまで眼にしたことのない習俗や自然の相貌との出会い。そうした他なるものとの予期せぬ遭遇を、ここに書き記すことにしたい。そうして、ひとつひとつの出会いを、自分自身の経験──すなわち自己の新生をもたらすような仕方で危険をくぐり抜けてゆくこと──として、もう少ししっかりと受けとめていきたいのだ。そうすることが、一歩一歩踏みしめながら残された日々を、生きたと言えるかたちで生き終えてゆくことにつながるのではないだろうか。
 その足跡をなすのはことばである。それをここに記してゆくのは、ことばそのものが、何か情報を伝えるための手段である以前に、何よりもまずそこにいる他者──ここでは読者ということになろう──とのあいだを開こうとする呼びかけだと考えるからであり、またそのような呼びかけとしてのことばが、語りだされた瞬間に、不特定の他者によっていかようにも読まれうる文字へと石化することを、引き受けるからであり、またそうしてでも自分の出会いを記すことばを、自分が出会ったのとは別の他者に伝えたい、と思うからである。音のない呼びかけの込められた文字としてのわたしの足跡、これをここに残してゆくことにしたい。そこからひとつの響きを聴き出してくれる読者がいたとしたら、これにまさる幸いはない。
 最後に、このブログの「Vermischtes」という標題について述べておこう。これは「雑多な」という意味のドイツ語の形容詞「vermischt」を名詞化したもので、「雑記録」ほどの意味である。

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