クラクフ旅日記:2013年7月24日

 早いもので、もう帰国の日が来てしまった。午前中は、国際美学会の3日目のセッションに参加できた。リチャード・シュスターマンが提唱する。Somaesthetics──日本語で言えば、身=肉の美学という感じだろうか──をテーマとするパネル・セッションの他、クリスチャン・ボルタンスキーらの記憶の芸術をテーマとする発表や、「不在の顕現」を軸とする、反形式的な戦略をもった伊勢神宮の遷宮のあり方を検討した発表を聴いた後、いそいそと空港へ向かう。
 会場の講堂の近くのバス停から乗った空港行きのバスが、意外に早く空港に着いたので、土産物を買ってからチェックインすることができた。これからフランクフルトと成田経由で広島へ向かうことになる。

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クラクフ旅日記:2013年7月23日

 夕方、国際美学会での研究発表を、何とか大過なく終えることができた。何よりも聴衆に恵まれて、セッション全体が温かい雰囲気だったのがありがたかった。内容豊かな発表だったと、よい反応がいくつか返ってきて、とても嬉しかった。セッションのなかの発表の一つがキャンセルになって、質疑応答の時間を長く取ることができたのは、よい経験になった。自分としては、英語の文章表現の点でも、また内容の詰めという点でもまだまだだし、またとくに質疑応答の受け答えの論理性が、自分で満足できるにはほど遠かったのが心残りだが、これが現在の実力なのだろう。ともあれ、いくつかの課題を踏まえつつ、次回の学会でも研究発表できるよう、研究を進めていきたい。
 同じセッションでは、ジャック・ランシエールにおける「観客の解放」をヴァルター・ベンヤミンの「翻訳者の課題」と結びつけて論じ、観客の自律性を深めようとする発表や、ブラジルのポップ・カルチャーの作品のいくつかに認められる、文化産業によって飼い馴らされえない美的強度ないし、「危険性」をミハイル・バフチンや「ロック」の概念と結びつけて論じた発表があった。それに先立っては、東アジアの美的実践をテーマにしたパネル・セッションを聴く。「風流」の概念で象徴されるように、自然と呼応しながらの自己の陶冶を、日常の喧騒と多忙さを離れた場所で、詩を作るなどして行なうことの重要性は伝わるものの、こうした美的な生活実践を、近代史の文脈を抜きにしてヨーロッパ美学において伝統的な美的観想と図式的に対置させてしまうことには、西洋美学ないしそのオリエンタリズムの図式に、東洋人がみずからを嵌め込んでしまう危険も感じないではない。
 午前中は「美学を超える美学」をテーマとするパネル・セッションを聴いた。哲学において伝統的な人間観では捉えきれなかった人間およびその理性の自然との連続性を踏まえつつ、かつまさに自分で自分の原則を創設する芸術の自己言及的な創造性として表われる、所与の自然的な状態をみずから超え出る人間のダイナミズムを踏まえながら、美学的ないし感性論的考察を従来の芸術を超えたところへ拡張していく可能性を論じるヴォルフガング・ヴェルシュの議論を軸にしつつ、そうした新しい美学の可能性を、現代芸術の動きと呼応させようとするものだった。アーティストのエドゥアルド・カックが質疑応答のなかで、芸術はこの世界のコミュニティの新しいメンバーを創造すると述べていたのが印象に残る。アルフォンソ・リンギスの言葉で言えば、何も共有していない者たちの共同体の新しいメンバー、それは自分の議論に引きつけるなら、死者でもあるだろう。
 夜には、旧市街の中心にある時計塔に、アフガニスタンやイラクの戦争に動員されたポーランド兵およびその家族の言葉を、軍用車によって投影し、さらにその言葉を銃声とともに撃ち崩すという、現代芸術家のクシュシトフ・ヴォディチコのパフォーマンスが行なわれた。アメリカを中心とするいわゆる「テロとの戦争」の列に加わろうという国家政策のために、戦争のなかで心身に傷を受け、家族との関係にも傷を負わされた兵士、そしてその家族の言葉が、断片的な叫びとして突き刺すように時計塔に投げつけられ、それが轟音とともに掻き消されるのを目の当たりにすると、戦争の暴力が今なお続いていることを強く感じざるをえない。

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